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●江戸時代〜齋理の財力〜 文化元(1804)年、丸森の町場替えとともに店開きした齋理は、最初呉服と太物を扱っていました。この頃、丸森一帯に生糸の生産が盛んになります。齋理は扱っていた商品からも生糸の値動きには敏感だったようで、自分で養蚕を始めたほか、生糸の相場を開始して、文政11(1828)年には手前金(流動資産)が百両を越しました。 その後、天保の飢饉では損害を受けたりもしましたが、幕末、海外との通商の再開とともに生糸相場が好調になり、手前金が二千両と今の上場企業なみの規模に達します。 |
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●明治・大正時代〜町づくりと齋理〜
戊辰戦争で齋理も様々な被害を受けましたが、商売は好調で、丸森が伊達領から南部領となった時にも、武家の屋敷や田畑などを入手して、地主としての基盤を固めていきます。 明治から大正にかけて行われた町づくりの事業には、町一番の資産家となった齋理の力が必要とされました。丸森に初めて電気をもたらした清滝の発電所、神明社の移転、自分の家を建てるように事細かに監督したという丸森小学校の建設(木材を吟味したので60年近くびくともしませんでした)など、齋理が果たした役割は大きかったのです。 |
![]() 清滝発電所開設 |
![]() 自動車備付記念写真 |
●昭和時代・戦争を経て
大正の終わりとともに、豪傑と呼ばれた六代目が亡くなり、齋理は最後の当主となった七代目の時代を迎えます。住宅建設、縫製工場、醤油の製造・販売と、齋理は新しい時代に適応した事業を展開しました。 しかし、昭和12(1937)年、日中戦争の始まりのころから、丸森にも戦争の影が落ち始めます。太平洋戦争に伴う物資統制によって、店の商売は止めざるを得なくなりました。戦後、農地改革で田畑を手放し、艶出し粉製造などの新規事業もうまく軌道に乗らず、昭和25(1950)年、七代目は店と蔵を閉め、仙台に転居しました。 |
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●「蔵の郷土館齋理屋敷」として
昭和61年初め、仙台で暮らしていた七代目当主から、齋理屋敷の土地、建物及び収蔵品のすべてを町に寄贈する申し入れがありました。敷地面積6、535平方m、家屋の数9棟、そして蔵に残された膨大な数の収蔵品——。町では、2年がかりで収蔵品の調査整備と、建物の修復を行い、日本の近代の歩みを物語るような品々を生かすため、昭和63年7月「蔵の郷土館齋理屋敷」として一般に公開しました。その後調査を進め、開館10周年にあたる平成10年7月、未公開部分の公開と併せ、未整備だった裏の敷地や庭を整備し新館「交流の館」「習の蔵」が開館しました。 |
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